蝉に気付かされた自分の生き方

台風やら大地震やらで大変な本日、普段どおりの忙しい一日の始まりに、たくさんの蝉の亡骸を見て感じる何かがあり、しばらく考え込む。

最初は自宅マンションの階段、そこから駐輪場、道すがらの公園入り口や歩道の脇などに数え上げると無数のセミたちが。中にはまだ命絶えていないセミもいて「ジジジ…」と僅かながらの力を振り絞って鳴くものもいて。

ここのところ数日の低い気温や冷たい風に体力を奪われたのだろう、中には土の中から出てきたばかりのセミもいただろう、こいつらは死ぬまでに自分のやりたいことをやり遂げることができたのかな、次の世代を生殖して遺すことはできたのかな、などと頭の中で妄想が膨らむ。

そんなとき、まだ元気なセミたちの、木の上から一斉に鳴く声が聞こえてきた。晴れてきた天気にここぞとばかりに出てきて鳴いているのかもしれないが、それはむしろ、今しかセミとして鳴けないと自覚した彼らの精一杯の合唱のように聞こえた。
セミたちだって気付いているのだろう、今は晴れているがまたもうすぐ冷たい雨が降るぞ、台風が近づいて来てるぞ、と。

とまあ、ここまではあくまで妄想なのだけど、自分の死期を悟ったときに自分は思い切り鳴けるだろうか、という自問にたどり着いた。
何も今日死ぬ明日死ぬと悟ったわけではないが、いづれ来るまたは突然来る自分の死をリアルに実感しておきながら、果たしてお前はミンミン鳴けているのかい、と。

やりたいことがたくさんあるのに、それに真摯に真正面から取り組んでいない日々の自分に腹立つ。人を喜ばせることも大事だが、そろそろ自分のことも大切にしてあげなきゃ、なんて当たり前の結論に至る。
もちろん、それには自分よがりではなくまわりの人や他人も喜ばせることも必要、少なくとも傷付けるようなことであってはいけない。
だが今の自分がやってきたことが人を喜ばせていたとしても、自分が喜んでいるかといえば、答えはまだNO。少なくとも自分の中では納得できてはいない。

せっかく度重なる生を与えられておきながら、気がつけばまたこれまでと同じく忙しく余裕のない自分の生活に戻りつつあるところにセミが気付かせてくれたこと。

セミはきっと他のセミのために鳴いてはいないだろう。自分も、自分のために鳴くことがそろそろ必要だと感じた。自分もいづれ死にゆくものだと本当に自覚せねば。

「蝉に気付かされた自分の生き方」への4件のフィードバック

  1. 人生は有限とはわかっていてもほうっておいたら忘れがちですよね。定期的に意識する仕組みが必要なんだと思います。

  2. お久しぶりです。またクライミングご一緒したいですね。
    かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)
    ってところでしょうか。

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