息子のためにがんばらねばと思うこころ

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子供が生まれる前からよく、「お父さんは大変だよ、養っていかないといけない責任があるから。がんばって働かないとね」風な励ましをもらっています。

たしかにそれは正しいと思うし、自分自身、今でもそれは肝に銘じています。

でもね、それ以上に”がんばらねば”と実感する理由がはっきりしたんです。

?食べさせなければ・養わなければいけない

→育てなければいけない

? 将来の困難に負けない、心の寄り処を遺してあげないといけない。

→育っていけるようにしなければいけない

先に述べたのは前者?の方で、それはつまり子供が自立できるまで育てなければいけないという責任。

自分自身もそのように思っていました、息子が生まれるほんの1秒前までは。

これはこれで正しいと認めざるを得ない責任で、頭の中では”父親になること”を 理屈としてそう理解してた。

けれど、生まれた直後からガラっと変化したんですよ。今でも不思議なんだけど、いざ目の前で生まれたての息子を見た瞬間に全く別物に

それまで感じてた責任を大きく超える「やべえ、がんばんなきゃ」っていう責任を。

自分自身その責任感が何なのかはっきりと説明することが出来なかったのだけれど、近頃すこし具体的にできたかも。それが上の後者?のような感覚。

前者?の方は言い換えるならば、大げさな表現かもしれないが「子供が成年し自立するまで面倒をみなければいけない責任」であり、子供の自立以降のスコープに関してはむしろ自身の責任とも読み取れる、18ないし20歳までの短期的な視点としか思えなかったのです。

しかし、考えてみると人生は20歳前後の自立以降のほうが本番で、長いはず。

「親はなくとも子は育つ」と言われてるし、生きていくこと自体は心配することはないのかもしれない。

だけれども、親の願いとしては、生まれてきた以上は子供には可能性の限り自身の人生を存分に謳歌してもらいたい

きっと子供も大人になって自分の足で立って生きる時がくれば、嬉しい・楽しいこともあれば、悩み・挫折するような困難にも遭遇すると思う。

そんな苦しい時にも心が折れてしまわないように、 心の支えになる何か一生物を遺してあげることこそが、親が頑張らなければいけないことなんじゃないかと感じたわけです。

それがいったい何なのかはこれから探さなければいけないんだけどね。

例えばそれは、苦しい時でも「愛する家族がいること」 で「よぉし、あの人たちに喜んでもらえるよう、がんばる!」と実感してくれることかもしれない。そのためには、親として”愛情”とは何かを肌で理解できる環境を創ってあげなければいけない。

例えばそれは、 子供が将来仕事や人生で悩んだ時に「でも、父ちゃんだって負けずに乗り越えて来たんだから、僕だって頑張れるはず!」という自信への寄り処となる、何かの実績を父親として遺してやることかもしれない。(何故か父ちゃん死んだ設定に…?)

そう考えると、自分のこの先の人生が短く感じるというか、時間足りんのかよという焦りも。

父親としてまっとうに生きている様を見せなければいけないし、同姓の男親としては自分の残りの人生をかけて何か成し遂げて遺してやらなければいけない。

なんかまだ上手く表現できていないけれど、そんな感じの責任感を分娩室で生まれた瞬間の子供を見た一瞬で感じ取ったのです。

ここで自分が述べていることは、決して「物質的・金銭的な何か」を遺してやることではなくて、もっと大切な「非物質的ななにか」を遺すという責任。お金や遺産なんて、そんなものは安っぽい。

後者?の方が長期的な視点であり子供にとって人生死ぬまでの財産であり、後者?は実はそれ自体で前者?も満たす十分条件にもなるのです。

またそれと同時に、子供も大人になり親になるときに、僕と感じたものと同じでなくてもいいので、自分なりに解釈した責任を見つけてほしいな、と。

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