最近の日本社会ではさまざまな課題が取り沙汰されていて、ときどき「社会的地位や所得の格差が広がったこと」が原因の中心であるかのように語られる場面を見かけます。もちろん格差の問題は軽視できません。
ただ個人的には、それだけで説明しきれるのかな……と、少し引っかかることがありました。
というのも、語られている「格差」は、結果として現れている現象や、その過程で起きている出来事の側面が強いように思う一方で、もう少し根っこのところに、人それぞれの「やる気」や「希望」の持ち方に差が生まれていることも関係しているのではないか、と感じたからです。
それが気になって、Twitterで『所得・社会的地位の格差が問題視されてるけど、本当なら「やる気・希望の格差」の方が問題なんじゃまいか?』と書いたところ、藤野さん@fu4から『山田さんの名作「希望格差社会」というのがありましたね。』という、まさにその視点に近い本の情報を教えていただきました。
さっそく手に取って読んでみたので、以下はその読書メモです。(区の図書館で借りました。無料で、ネット予約できて受け取りも早くて、便利ですね…)
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まず全体の感想を正直に言うと、「読み終わるころには気持ちがずしんと重くなる本だな…」という印象でした。
本書は、現代の不安定な日本社会におけるリスクや特徴を整理し、日本社会の二極化・格差の特徴を提示します。比較のために、戦後の高度成長期の“安定していた社会”の様子にも触れたうえで、章ごとに職業・家庭・教育それぞれが抱える不安定さを丁寧に積み上げていきます。
その結果、最後には「希望の喪失、若者の意識、リスクからの逃走」といったテーマに至り、読者としては「う、重い……。」となりやすい構成だと思いました。
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読みながら考えたのは、たしかに生活や地位に限らず、機会の配分が均等ではないこと、偏りが存在することは否定できないという点です。
一方で、次の2つはずっと頭の片隅にありました。
- そもそも「すべてが完全に均等」な社会は現実的には難しく、程度の差はあれ格差は生まれやすい。
- 厳しい側面に光を当てることは大事だけど、同時に“いまこの時代ならではの希望”もあるはずで、その両方を見たい。
前者について。格差が話題になるとき、どうしても「格差がある=異常」という受け止め方になりがちですが、歴史的にも世界的にも、何らかの差が生じるのはむしろ自然でもあります。
言い換えると、これまでの日本社会が(良くも悪くも)相対的に“均されて見えやすい”状態だったぶん、変化が起きたときに「急におかしくなった」と感じやすい面もあるのかもしれません。
そして後者については、ここは自分が期待していた方向性と少し違った部分でもありました。
本書は、過去の日本社会との比較を軸に、「当時と比べて現在はこういう不安定さが増えた」という説明が中心で、読後感としてはどうしても重さが残ります。
ただ、時代が変われば環境も価値観も変わります。だからこそ、当時にはなかったけれど、いま存在している新しい希望も必ずあるはずだ、とも思いました。
古い前提が崩れたのなら、新しい前提の上で希望を探していく——その視点も同時に持てると、必要以上に「全部がダメだ」とはならないのではないかな、と。
つまり、自分がTweetした『「やる気・希望の格差」の方が問題なんじゃまいか?』の真意は、突き詰めると次のような感覚でした。
「希望を探そうとする“やる気”や、見つかると信じて“行動する”気持ちがあれば、どの時代でも自分や周りを少しずつでも前向きにできる。けれど、そうした気持ちを持ちにくくなる状況や、持とうとする人が減ってしまうことこそが、じわじわ効いてくる問題なのではないか」
もちろん、これは気合い論で片づけたいわけではありません。むしろ、気合いだけではどうにもならない現実があることを、この本は丁寧に示していました。
そのうえで、「希望を持ちにくい構造」と「希望を持とうとする意志」の両方をどう扱うのか——そこが難しくも大事な論点だと感じました。
……と、根っから前向き寄りの自分が書くと「楽観的すぎる」と思われるかもしれないので、このへんで。
以下、気になったポイントの抜粋メモ。
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P.37 ”リスクとは何か”
リスクとはもともと”勇気を持って試みる”という意味であり、必ずしも悪い意味ではなく、”危険”とは異なる。「不確実性」は”将来予測がたたない状況”を表す。一方リスクは生起する危険の内容についてある程度計算が可能という意味を含んでいる。
p.68〜 ”3−2 格差の時代的変遷”
社会が近代化される以前、生活水準の格差は原則として、生まれた親の職業によって決まった。(中略)近代社会は、〜建前上は、生活水準の高さは、実力の反映であるという解釈ができあがる。
近代社会の格差の正当性は、この点、つまり、生活の格差は実力の差であるから「納得するべきである」というイデオロギーに依存している。
p.147 ”フリーターの不良債権化”
このままだと、昇進のない単純労働に従事し、仕事能力がつかないまま、いつか、夢は実現すると夢想して、年齢だけを重ねる元若者が大量に出現する。
夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは「ウソ」である。全ての人が希望通りの職に就けることは有り得ない。
「一生」大学教員になれない博士課程修了者は年に一万人ずつ。
「一生」上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業者は多分、年に数万人ずつ。
「一生」中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えていく。
これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人以上発生していくのである。
フリーターは、バブル期に企業の作った不良債権に似ている。いつか、土地や株が上がれば大丈夫と期待し、対策を打たずに、そのまま不良債権がふくらみ破綻に陥る。それが今の若者にも起こりつつあるのだ。
p.198 ”各種学校、専門学校-「漏れ」を前提とした新たなパイプライン”
近年出現している新しいタイプの各種学校、専門学校は、既存のパイプライン(*学校教育システムのことをイメージ)の代わりや補完にはならない。なぜなら、多くの新しい職種では、初めから漏れ(*脱落、その後フリーター化する若者)を前提としたパイプラインしか作れていないからである。
(中略)例えば、アニメ等の興隆で声優という職業が認知され、「声優になりたい」という人が増えている。そして声優学校が何校もできている。しかし、現実に声優として仕事ができる人は一握りである。 また、フライトアテンダント受験のための専門学校はあるが、そこで実際、航空会社に採用される人は、非常勤も含めて一割にも満たないという。
初めから職業の需要以上の太さのパイプを作り、生徒を集め、大多数を漏れさせていくというシステムになっているのである。
(中略)このような各種学校は、パイプラインから漏れた高卒者、大卒者の一時的避難場所にしかならない。多くの専門学校、各種学校卒業生は、再度、パイプから「漏れる」体験を強いられることになる。
p.212 ”代替案の不在”
例えば、「起業」という選択肢があり、学生時代、または会社をやめて起業して成功した例が報道され、推奨される。しかし、だいたい起業というものは、人脈や資金力、そして当然のことながら、その分野における優れた能力がなければうまく行かない。
若いうちに独立・起業して成功した人は、企業に残っていたとしても出世昇進できる。
(中略)能力はあるのに、性格的にパイプ(学校・会社)が肌に合わなくて、自主的にパイプラインから外れた人間なら、起業で成功することも期待できる。
しかし、そうではなくパイプから漏れてしまった人が起業で成功する見通しは大変低い。
p.231 ”努力が報われない機会の増大”
現在の日本社会は「努力が報われない機会」が増大する社会となってしまった。
(中略)つまり「いままで努力してやったことが無駄になるかもしれない」という状況は、平均的能力をもつもののやる気をなくさせるのだ。
(中略)いま、日本で生じつつある社会変化は、能力のあるものの『やる気』を引き出すかもしれないが、能力がそこそこのものの『やる気』を削ぐという側面がある。
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